八橋人形とは
八橋人形の歴史   梅津 秀

  (一)

 八橋人形は、横手市の中山人形(樋渡伝承)や昭和46年ごろまで制作されていた小坂町の小坂人形(菊沢陶造伝承)と並ぶ本県の数少ない郷土玩具である。その発生や由来については明確な歴史的史料がなく、口伝として伝えられてきた。
 それによると安永・天明年間(1772〜1788ー安永元年であれば243年前ということに)ごろ、京都伏見の人形師が久保田(現秋田市)の川尻村の鍋子山(現在の市立総合病院付近)に窯を開いて土師器(はじき)や人形を焼いたのが始まりとされている。
 安永年間といえば、杉田玄白が洋書の医学書を翻訳した「解体新書」を著した時代で、この挿絵を描いたのが小田野直武で「秋田蘭画」の画家としてもよく知られている。
 また、天明年間といえば、近世では最大の飢饉と言われる、「天明の大飢饉」があった時代で、青森の弘前藩(津軽藩)だけでも死者は10万人を超えたと伝えられている。また、テレビ時代劇の「鬼平犯科帳」で知られる長谷川平蔵が火付盗賊改方長官になったのもこの時代で、江戸時代真っ盛りの時代と言える。
 話を戻すが、川尻村の鍋子山の人形師の素性やなぜこの地に窯を開いたのかなどについては不明で、わずか数年で制作が途絶えたと伝えられる。昭和54年刊行の渡辺為吉著「白岩瀬戸山」には、以下の記述がある。
「毘沙門社の別当をしていた金山良寛の時代に大阪から来た夫婦者が鍋子山で窯を築き、人形を焼いていたが、悪病で二人共亡くなった」との興味ある逸話である。この時代になぜ秋田まできたのかは謎に包まれている。
 その人形は極めて精巧に造られていて彩色はされていなかったという。実際に鍋子山から発掘された作品8点が、県立博物館に保管されていて、私も見せてもらったが、それは絵付けされていない素焼き状態の4、5センチの小さな婦人像や狐などで、そのほとんどは顔などが欠けた状態であった。
 制作が途絶えた後、川尻村にあった鋳銭座(ぜにざ)、貨幣鋳造(ちゅうぞう)所の職人が埋もれていた破損品や焼け損じを掘り出し、型を起こしてここの窯で制作したという。
 それから4、50年後の天保・弘化年間(1830〜1847ー18年間)に八幡村(現秋田市八橋)の和助が窯跡から型を掘り起こし、これに倣って型を起こし制作を始め、これが八橋人形の素型になったと伝えられている。
 また、「寺内町史」では文政年間(1818〜1829ー12年間)に先述した毘沙門堂の別当の金山良寛が制作を始め、現在まで継承されてきたとされる。八橋人形は明治末頃までは毘沙門人形の名称で呼ばれている。


  (二)

 文化8年(1811年)に宮城県白石の住職で俳人の岩間乙二(おつに)が残した北海道を旅した紀行文「斧の柄(おののえ)」に函館の街中の描写があり、「伏見、庄内、秋田より舟にて運び来る土人形を並べる家々もあり」と記している。伏見の人形は京都の伏見人形。庄内の人形は当時、瓦人形と称されていた鵜渡川原人形と思われる。そして秋田の人形は八橋の毘沙門人形(八橋人形)が日本海廻りの北前船に積まれ函館まで運ばれて売られていた事が分かる。ちなみに、庄内の鵜渡川原人形も伏見人形の流れを汲むとされ、江戸時代末期に制作が始まり、平成11年に大石定祐さんが亡くなるが、その2年前に廃絶を心配した人達が伝承の会を発足させ、保存、制作活動を続けている。平成27年の10月に我々「八橋人形伝承の会」の会員5人で酒田市まで行き、この会員たちと交流してきたが、恵比寿・大黒や高砂などそっくりな人形もあり、驚かされた。どちらの人形も伏見人形の流れを汲むとされており、むべなるかなとの思いに駆られた。

 八橋は久保田城下と土崎港とを連絡する街道筋で、日吉(ひえ)八幡神社や菅原神社などがあり、江戸時代後期には芝居小屋や茶屋が立つなどして栄え、男の子が生まれると、天神人形を買い求め、女の子の祭りの節句には雛人形を飾ることが周辺地域の習わしになっていたこともあり、多いときには人形店が10軒以上も軒を並べていたといわれる。八橋の近くには良質の寺内粘土層があり、寺内焼の名称で藩の窯も開かれ、現在も寺内には古四王窯の名称で陶芸が制作されている。この粘土が土人形の材料として使われ、昭和30年頃までは寺内から馬車で大量に粘土を運んだとの記述もあ る。

 秋田魁新報の大正2年12月の記事には工房は6軒あると記されているが、昭和に入ると、京人形のような高級な雛人形や博多人形などの大衆化に押され、次第に衰退。昭和10年代には遠藤家、高松家、道川家の三軒だけになり、昭和35、36年ごろに遠藤家の鐵蔵さんが亡くなって廃絶、平成元年に高松茂子さんが亡くなって、高松家も廃絶し、道川家ただ一軒だけが残っていたが、平成26年3月に最後の継承者、道川トモさんが亡くなって、廃絶状態になった。



 (三)

 道川家の人形造りの歴史に簡単に触れると初代は久吉さんで、日吉(ひえ)八幡神社で神職をしながら人形を制作していた大沼秀也さんが亡くなったとき、宮司から型を譲り受けている。
 二代目がトモさんの母親のナハさんで夫のもとさん(幹の偏に袴のつくり)と一緒に制作。そして四女のトモさんが三代目となり最後の八橋人形伝承者となった。
 八橋人形は京都の伏見人形の流れを汲んでいるとは言うものの、江戸や明治のころには数百種類(500種類とも)あったという型はほとんど失われ、しだいに雪国秋田の風土を感じさせる土着性の強い、素朴で土臭い作風に変わり、それが特色であり魅力にもなっている。
 道川豪の原型は現在、80種類ほど残っている。「八橋のおでんつあん」として親しまれてきた天神人形や雛人形、そ
のほか「羽子板持ち」「おさげ」「花持ち」などのかわいい女の子の人形、それに「恵比寿・大黒」「福助」「招き猫」などの縁起物などがある。
 八橋人形の制作工程は、粘土をよくこねておく下ごしらえ〈現在は陶芸用の良質の粘土を買い求めており、さほど手間はかからない)・型取り・乾燥・窯焼き・絵付けの5工程に分かれる。原型に粘土を詰めて型を抜いてから自然乾燥させ、8時間ほどで(最高温度800度)素焼きした後、絵具で絵付けをして完成となる。
 本来、江戸時代からの技法では下地塗りは膠液に胡粉(牡蠣などの貝簡を砕いた粉)を溶かしたものを用い、顔料も膠液と混ぜて塗るが、様々な制約があるため現在、当工房では主にネオカラーという新しく開発された絵具を使用している。それでも江戸時代から守り伝えられてきた胡粉と膠液と顔料での技法の継承も必須で、現在、会員3人が伝統技法による絵付けに取り組んでいる。

鯛抱き恵比寿に絵付けをする道川トモさん
コロコロを使う在りし臼の道川トモさん(平成21年4月29日 撮影・小西)


※参考文献
 「秋田市史」
 「八橋人形の歴史と信仰」高橋正著
 「八橋人形」井上房子著
 「あきたの郷土玩具」三浦正宏著
 「秋田八橋人形」木崎和虞著
 「秋田魁新報記事」